1964年1月8日に名古屋市内にて和菓子・洋菓子屋の長男として生まれる。
生まれてから高校卒業まで家業を継ぐことに対して不安などを感じつつ、
高校卒業後は東京の宮内庁ご用達のお店の和菓子屋に就職した。
しかし、
「こんな自分は世の中に必要じゃない。」
「どうせ才能もないからお菓子屋を継いでもダメ。」
「僕は誰にも必要とされていない。」
と思い、電車に飛び込み自殺をして、死にきれず、電車を止めてしまったり、
いつでも死ねるように天井からロープをつるして、何度も自殺未遂をしていた。
そんな悩みをいつもManaは聞いてくれた。
そして27歳のときにManaと結婚。
HIROの家業をManaと共に手伝うが、どこかに違和感を感じていた。
「このまま家業を継いでいいのか?自分のしたいことは本当に家業なのか?」
と思いつつ、日本を離れ、二人で海外に住んだ。
住んだ国はグアム、ニュージーランド、オーストラリアだった。
グアムではダイビングの仕事をしていたが、ビザの関係上、
働いてもお金をいただけなかったので、
自給自足で魚やカニやエビを海で取って、
餓えを凌いでいた。
ニュージーランドでは、5スターホテルのペストリー(デザート部門)に所属し、
日本の和菓子を世界を代表する著名人に提供。
僕はこの時、お菓子を作る事にはなにも抵抗はなく、むしろ、
大好きだったことに気が付いた。
自分が必死に抵抗していたのは、
「家業をつぐこと」と、
「誰がたべるのかわからないこと」だったことに気づいた。
ニュージーランドのあるカフェのオーナーから、
「就労ビザを出すからうちで働かないか?」
とお声掛けをいただき、就労ビザを取得するため、日本に帰国。
しかし、両親が猛反対。「もう、遠いところへは行かないで!」と・・・。
ニュージーランドへの再渡航はあっさりと諦めた。
あるとき、ある人からの紹介で岡山県のホテルを紹介され、
そのホテルに就職。
そのホテルで自分の作りたいデザートを沢山、作った。
しかもこのホテルの料理長は「料理の鉄人」のフレンチの鉄人坂井さんに勝利した、フィリップ・バトン氏だった。
彼からは料理に対する姿勢を沢山学び、
人間としての生き方を教えていただいた。
そんな中、1か月程、発熱が夜になると発症し、仕事も年末を迎えていたため、病気で休むことができなかった。というか、自分が休むことに対して、許可を出せなかった。
病気は悪化し、厨房の冷蔵庫の下の材料などをしゃがんで取れなかったり、口の中は口内炎だらけで手ははれ上がり、包丁すら握れなくなった。
すぐさま、病院に行き、お医者さんから、「入院です」と告げられた。
苦痛だった。僕が抜けたら、仕事の負担を皆んなにかけてしまう。
そして、上司が「おまえはよくやった。ゆっくり休め」と・・・。
その時、病名を先生は言った。
「膠原病の疑いがありますので、大きい病院に移りましょう」
不安がよぎった。
とりあえず、病院を移り、僕は治療に専念した。
しかし、毎日毎日、検査ばかりで、病名ははっきり知らせてくれなかった。
ある内科の先生は「白血球の値が異常に高いので、急性白血病も考えられます」と・・・。
白血病???
頭の中は真っ白だった。この時僕は自らの「死」を選ぶのではなく、
病気による「死」を待つということを思い、最悪の精神状態に陥った。
早く職場に戻り、デザートを作りたいと思い、病気から生還する事しか考えなかった。
長い闘病生活もなんとか乗り切り、僕は復活し、仕事に復帰した。
仕事に復帰してから、自ら、サービスの勉強もし、ソムリエになるための勉強もした。
そしてソムリエの試験を受講。 結果は2次試験で不合格。理由はフランスアルザスのワインとドイツワインの初歩的なテイスティングを間違えてしまったからだ。
そして、結婚式のキャプテンなども務め、お客様の喜びが自分の喜びと実感し、もっと楽しいことをしようといろんな企画も立て、自らが仕事を楽しむことを生きがいと感じていた。
そんなある日、名古屋での仕事があるというお話が知人から舞い込んできた。
「名古屋は僕のふるさと」
と思い、7年間楽しい仕事をさせていただいた岡山のホテルを退社し、
名古屋へ引っ越しをした。
名古屋での仕事は4店舗ある、飲食店のマネージメントだった。
名古屋へ引っ越ししてから半年後、
僕の父親から、「もうわしは歳だから帰ってきてくれ」と電話があった。
「もう親孝行は今しかできないかも・・・」と思い、家業を継ぐのではなく、戻るという、選択をしたのだった。
あれだけ、家業に抵抗を感じていた自分がなぜ家業に戻ったのか
本当の意味では未だにわからない。
その家業の実態・・・・。借金まみれだった。
数億円の借金・・・。自分に払えるわけがない。
すこしでも借金を返すためになにをしよう・・・。
考えたのは、ネット販売だった。
僕の一番得意で一番おいしいと思ったものをネット販売で必死で販売した。
結果、ある時期ではランキング2位という結果だった。
もちろん、このネット販売では黒字だったが、お店は赤字だった。そして無収入だった。
どうかんがえてもこの売上でも借金は返せそうもなく、両親に数字を説明し、お店をやめる方向で考え、家業に戻ってから4年後にはお店をたたみ、土地も建物も売り、借金をすべて払い終えたかに見えたが、、やめてからも父親が友人から借りていた借金が判明し、僕は自分の生活までも危なかったので夜中もアルバイトで働いた。
そんな中、僕はアルバイトの休みの時にはManaのお手伝いをしていた。
クリスタルボウル演奏会やアーユルヴェーダのセッティング、
後片付けなどを快くひきうけて進んでしていた。
特にクリスタルボウル演奏会はいろんな人がきてくださるので、楽しくてしかたなかった。
この時だった。
「僕もクリスタルボウルの演奏者になりたい!」と、思い、
そしてManaと共に二人三脚でクリスタルボウルを奏ではじめた。
高校時代、僕は吹奏楽部に所属し、アルトサックスを吹いていた。
音や音楽に関することは本当に好きだったということに気が付いた。
18歳のころ、渡辺貞夫にあこがれていたことを思い出した。
もし、僕に家業がなかったら、プロのミュージシャンとして、サックスプレーヤーになりたいと思っていたころがあったのだ。
2年前に、 音響が必要だったので、友人にどんな音響が必要なのかを聞いたり、
最初はだれか貸し出していただける方はいないかと思い探していた。ある日、
ミュージシャンの友人から、
「ManaさんとHIROさんはこれからミュージシャンとして生きてくんだよね♪」
と問いかけられた。
「ミュージシャンなら、自分で購入して、持ってた方がいいよ!」
「僕たちがミュージシャン????」
その時は頭の中が誰の事だろうと他人事のようにおもっていたが、
よくよく考えてみると、
そう、僕はミュージシャンにもなりたかったと思ってたんだ!
これって「夢が叶った!!!」ってことにも考えれるのかなぁ???
その後、衝撃的な出来事がたくさんもあった。
それはシータヒーリングとOSHO禅タロットと岡部明美さんとの出会いだった。
シータヒーリングは、自分の思い込みを見つけ、その思い込みを無くし、自分にとって最高最善の状態になっていく過程に驚いたからだ。
例えば僕は以前、
「早くしないと、自分だけ残されて、だれもいなくなる。」
という思い込みから「トマト事件」を思い出したことがあった。
そのトマト事件とは、、僕はトマトが大嫌いだった小学校の時の話で、
僕は小学校の給食で、いつもトマトを残して食べずに、家に持ち帰っていた。
ある日トマトを残してこっそり家に持ち帰ろうとすると、
誰かが、先生に
「あっ!トマト食べずに持つてかえろうとしてる!!」
と、先生に伝えられて、先生は、授業後、残って食べてから帰りなさい!!!
と言い、授業後、何人か持って帰ろうとしたトマト嫌いな人は残った。
3人もトマト嫌いな人がいた。
僕は絶対に食べようとしなかった。
他の2人はなんとか1時間ぐらいかけて、
トマトを食べてから帰ってしまったが、
僕だけ、食べる事ができずにその後も教室に残った。
17時は過ぎていただろう。時間をかければ食べずに帰れる・・。
ふと、トマトとにらめっこをしていると、
父が先生に呼び出されて僕を迎えに来た。
父は「おまえ!トマト食べんかったら家に入れんぞ!!!」
と鬼のような形相で僕に言った。
先生は父に「伊藤君がトマトを食べるようにしてください!」と言った。
父は先生に「いつも食べるように言ってるんですがねぇ~」
父は僕の味方もせず、
まるで僕を犯罪者のように扱った。
悔しかった。泣きたかった。叫びたかった。
そんな思いを二度としたくないから
僕は誰よりも物事を素早くしないといけないし、
早くしないと自分だけ残されて、だれもいなくなる
と自分で自分に思い込みを作ってしまった。
僕の思い込みは、
・遅いことはだれにもできる。
・ゆっくりしていても時間がたてば許される。
・だれよりもスピーディーだとかっこいい。
・遅いと怒られる 。
・早く物事を済ませないと取り残される。
・いつも時間がない 。
・トマトは嫌いだ。
シータがすごいのはここからだ!!!
この思い込みをシータで置き換えてみた。
シータにより、この思い込みをすっかり、なくしてくれたのだ。
この書き換えにより、体力的にも余裕を持てるようになり、
実際にも、物事が早くても遅くてもスムーズに回るようになった。
ちなみに今はトマト大好きです。
今までの思い込みはなんだったんだろう???と思うくらい、
思考を変換してくれる、
シータヒーリングは本当にすごいと思った瞬間だった。
それからシータヒーリングでもうひとつ、思い込みを変換したことがあった。
それは、
「お金がなくても、幸せならそれでいい」
という思い込みだった。
この思い込みが僕に
「お金なんていらない」
という、思い込みを自分自身が作り上げていたのだ。
案の定、会社に勤めていたとき、昇進しても給料が上がるわけでもなかったし、
いくらたくさんの時間を働いてもお金は貯まるわけでもなかった 。
僕はお金に対して、「ほしい」と心では思っているが
言葉にして言えなかった。
なぜならば、「ほしい」と言えば、他人からどう思われるかをまず気にするからだ。
僕はこう考えた。
「お金は幸せになるための一つのツール」と。
そう考えれば、「お金、ほしいですか?」と聞かれれば、
即答で「ほしいです」と応えれるようになった。
現実に僕は
・お金はきたないもの
・お金を持っていると、誰かにねたまれる。
・お金はだれかにもらえるもの
・お金はいつかは手に入る
・借金は財産
と、思っていた。
この思い込みは正直、なかなかとれなかったが、
シータヒーリングの豊かさと願いの実現セミナーで半分ぐらい書き換えが出来き、
ゲームオブライフで、完全に書き換えが完了した。
そして、 僕は自分の中にあった、数えきれないほどの不健全ないろいろな思い込みを書き換えた。
そうしたら、自分の目の前にある世界がガラッと変わったのだ!