死についての言葉

先日の2/14に父のお兄さん(僕にとって叔父)が亡くなりました。

昨日お通夜で、今日は告別式でした

いつも僕のことを心配し、お菓子屋をやっているときは

忙しい時に手伝いに来てくれたり、口は達者で遠慮がちな叔父でした。

死因は心筋梗塞。歳は87歳だったが、朝、家族が起きた時に亡くなっていたそうです。

前日までは畑仕事をしたり、ごはんも2杯も食べていたそうです。

突然のできごとだったし、1か月前に会ったときは元気でした。

本人のことを思うと苦しまずに三途の川を渡ることができたのだろうが、

残された家族としては突然すぎて辛すぎる別れだと思う。

人間の人生ってわからないものです。。。

 

 

OSHOが『死について』を書いていることを思い出したのでシェアしたいと思います。

 

死はもっとも誤解されている現象だ

死は最も誤解されている現象だ。

人びとは死は生の終わりと考えてきた。

それが、最初の根本的な誤解だ。

死は終わりではなく、新しい生の始まりだ。

そうだ。死は、何かすでに死んでいるものの終わりだ。

死はまた私たちが生と呼ぶものの頂点でもあるが、

生とは何かを知る人はほとんどいない。

彼らは生きるが、あまりに無知に生きるので自分の生に直面することがない。

そしてこのような人たちには、自らの死について知ることは不可能だ。

というのも、死は今世の究極の体験であり、来世の始まりの体験なのだから。

死は、二つの生をつなぐ扉だ。

ひとつは後に残され、ひとつは前方で待ち構えている。

死に何ひとつ醜いところはないが、

人は恐怖のあまり死という言葉さえ、

醜く、言葉にするのもはばかれるものにしてきた。

人は死について語るのを好まない。

死という言葉を聞こうとさえしない。

 

その恐れには理由がある。

死ぬのは常に他人だから、恐れが生じるのだ。

あなたは死をいつも外側から見ているが、

死は最も内なる存在の体験だ。

それはちょうど、愛を外側から見ているようなものだ。

愛を何年見たとしても、愛とは何かを知ることはない。

愛がどう表現されるかについては知るかもしれないが、

愛そのものについて知ることはない。

死についての知識も同じことだ。

ただ表に見えることだけ――呼吸が止まった、

心臓が止まった、話し、歩いていたその男はもはやそこにはいない

 

――生きている体の代わりにただの死体がそこに横たわっている。

こういったことは単に外側の症候にすぎない。

死はひとつの体から別の体への魂の移行であって、

もしその人が完全に覚醒していたなら、

ひとつの体から宇宙全体という体への魂の移行だ。

それは大いなる旅だが、それを外側から知ることはできない。

外側から見ることができるのは症候だけで、

そしてこうした症候が人びとを恐れさせてきた。

死を内側から知った者は、死への恐怖のすべてを失う。

Osho,  Zarathustra: A God That Can Dance, Talk #16

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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